令和六年能登半島地震の1日でも早い復興と犠牲になられた人々のご冥福を心よりお祈り致します。皇學館高等学校の校歌に「めぐれる松の色のごと、常に変わらぬまごころを御国の為に尽くすべし」とあります。世が乱れ人々の心がざわめくことがあっても、常に自分の信念を曲げず、右に寄ったり左に傾いたり、コロコロと変わることがないような生き方、大勢が誤った方向に行ったとしても、それに同調しない正しい判断をすることが大切です。ウクライナとロシアの問題。イスラエルとハマスの問題。中国や北朝鮮の問題。そして、国内のサギ事件、まして、被災された方々につのった義援金をくすねるなど、人の弱味につけ込んだ事件は、人間とも思えない恥ずべき行為で許すことができないと思います。今こそ世の乱れに対する正しい判断が求められていると思います。皆々様の御多幸を祈念致します。<宮司>
三月(弥生)
き)」が詰まって「やよひ」となったという説が有力で異論は特にない。他に「花月(かげつ)」、「花見月(はなみづき)」、「夢見月(ゆめみづき)」、「桜月(さくらづき)」、「暮春(ぼしゅん)」等の別名もある。日本では年度替りの時期であり、卒業式や送別会が行われ、出会いと別れの時期でもある。月末には人事異動、引越しが行われ新生活の始まりで多忙となる。桃の節句、春の彼岸も三月の伝統行事である。
上巳(じょうみ)の節句
旧暦の三月三日は桃の花が咲く季節であったことから「桃の節句」とも呼ばれる。「雛祭り」の起源は今日の貴族階級の子女が、天皇の御所を模した御殿や飾り付けで遊んだ平安時代の「雛あそび」が始まりとされ、やがて武家社会でも行われるようになり、江戸時代には庶民の人形遊びと節句が結びつけられ、行事となり発展していった。その後紙製の小さな人形を作ってそれに穢れを移し、川や海に流して災厄を祓う祭礼(流し雛)となった。
啓蟄(けいちつ)
二十四節気の一つ、雨水から十五日目頃。太陽の黄経が345度の時。旧暦二月の節。冬眠していた虫が穴から出てくるという意味。
蟄虫戸を啓く(すごもりむしをひらく)。
「啓蟄」または「蟄虫戸を啓く」とは寒い冬の間土の中で過ごしていた虫たちが春の気配に誘われて目を覚まし、地上に這い出てくる時季であるという意味。
蟄虫(すごもりむし)とは爬虫類、両生類なども含まれ、カエルやヘビなども姿を見せるようになるということで、太陽の光も強くなって来ます。
春分の日
「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という趣旨で昭和23年に制定された国民の祝日
春分
二十四節気の一つ。啓蟄から十五日目頃。太陽の黄経が0度の時。昼夜の長さがほぼ等しい。
社日(しゃにち)
社日とは、生まれた土地の神様のこと。産土神のこと。産土神は、土地の神様、その土地に生まれた人に一生ついていると言われちる神様。そのため、後に引っ越しをして土地を離れたとしても、生涯に渡って自分を守ってくれる有難い存在と考えられている。社日は、春分の、秋分の日に近い戊(つちのえ)の日の年2回ある。農業が生活の中心であった昔は、春の田植えの時期と秋の収穫の時期は一年で特に大切とされてきたため、その土地の神様である産土神をお祀りすることで、五穀豊穣を願ったり、感謝したりしました。社日祭では、春は麦や米をお供えしてその年の方策を祈願し、秋は収穫した新米を一升瓶に入れ、お酒やおはぎをお供えするところが多いようである。社日に土を触ることは避けるべきとされている。それは土地の神様を怒らせる行為と考えられている為であり、神様の領域を不用意に乱すことになるので、この日は土いじりを避け、神様に敬意を表す日として過ごすこと。社日は農作物を育てる土地の神様を祭る日であり、そのためには米、野菜、種子などの農作物や、餅、お酒、など農作物由来のものを供えるのが一般的で、肉や魚を供えることもタブーとされている。これらの習慣は、日本の自然と共生する文化の一環として長く受け継がれて来たのである。
彼岸(ひがん)
春分の日を挟む七日間が春の彼岸。彼岸会はもともと修行期間であり中日の前後三日間の一日ずつに布施・持戒・忍辱(がまん)・精進・禅定・智恵という六波羅蜜とよばれる六つの実践行の一つずつを実行する行事であった。生きている者は「此岸」と呼ばれる迷いの世界にいる。悟りの世界である「彼岸」に渡りたいというのが人々の共通の願いである。やがて「彼岸」をあの世と解釈するようになり、亡くなった人々を供養してご先祖に感謝して墓参りをする風習となった。