高市内閣が解散し、二月八日に衆議員議員選挙が実施されます。国民の信任を得たいという理由です。不安を抱えては先に進む事はできません。支持率は石破内閣に比べ随分高かかったのにそれでも踏み切った事は大変勇気のいる事です。
立憲民主党と公明党の組織「中道」、「中道」とは右にも左にも偏らない事ですが、選挙結果はどうなるのか?この先日本がどう進むのか、先行きが心配です。
デジタル化が進み、買い物の支払いも機械と向き合わなければならない時代になりました。紙ベースが少なくなり、新聞記事や浸画本までスマホで観る事が出来ます。年賀状も年々「今年で最後に」という人が続出しています。果たして人の情けはどうなるのでしょうか?
皆々様の幸を祈念致します。<宮司>
如月(きさらぎ)
旧暦二月を如月と呼ぶ。現在では新暦二月の別名としても用いる。中国の二月の異称をそのまま使ったものである。由来には次のような諸説がある。まだ寒さが残っているので衣(きぬ)を更に着る月であるから「衣更着(きさらぎ)」、草木の芽が張り出す月である「草木張月(くさきはりづき)」、陽気が更に来る月である「気更来(きさらぎ)」などである。
節分
節分は季節の分かれ目の意味で、立春、立夏、立秋、立冬のそれぞれの前日のこと。節分が時に立春の前日をさすようになったのは、冬から春になる時期を一年の境とし、現在の大晦日と同じように考えられていたからである。前年の邪気を祓うという意味で追儺(ついな)の行事が行われた。その一つが「豆まき」である。追儺の行事は俗に「鬼やらい」、「なやらい」、「鬼走り」、「厄払い」、「厄おとし」とよばれ、疫病などをもたらす悪い鬼を追い払う行事で、文武天皇の慶雲三(706)年に宮中で初めて行われた。鰯の頭を柊の小枝に刺して戸口に挿す風習は近世以降、魔除けのために行われるようになり、巻き寿司を食べる風習は福を巻き込み、縁を切らないという意味を込め、大阪の船場で行われていた風習である。
紀元節(2月11日建国記念の日)
八世紀初めに編まれた『日本書紀』には初代天皇である神武天皇は「辛酉年春正月、庚辰朔」に橿原の宮で即位されたという記事があり、明治六(1873)年、正月朔日、すなわち1月1日をそのまま新暦に置き換えた日付である2月11日を神武天皇の即位日として祭日と定めた日が紀元節である。それ以降紀元節には宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遥拝式も行われた。戦後連合国最高司令官総司令部より排除されたが、昭和四十一(1966)年「建国記念の日」を国民の祝日とする法律が成立し、翌年から実施された。尚、昭和天皇も今上天皇もこの日には宮中三殿で拝礼され橿原神宮へは勅使が派遣されている。
二・二六事件 昭和11(1936)年
北一輝の思想的影響をうけていた皇道派の一部陸軍青年将校が、首相官邸・警視庁などをおそい、高橋是清蔵省・斎藤実内大臣・渡辺錠太郎陸軍教育総監らを殺害するに至った。このクーデターは失敗し鎮圧されたが戒厳令のもとでかわった広田弘毅内閣は、閣僚の人選や軍備拡張・国内政治改革などの政策について軍の要求を受け入れて成立し、以後は、軍部の発言権が増大した。
北方領土
千島には以前からアイヌの人々が住んでいた。日本の人々に知られたのは江戸時代のこと。その後、ロシアも南下政策で樺太や千島に進出して来た。1800年代南部藩に捉えられたゴローニンとロシア戦に捕えられた高田屋嘉兵衛の交換事件もおこり国境を決める交渉が始まった。1855(安政元)年2月7日「日露通好条約」が結ばれ、国境は択捉島と得撫島の間に決まり、樺太は国境を決めず両国混住の地とした。1869(明治2)年政府は札幌に開拓使を設け、「北海道」と名付けて力を入れたが、樺太でのロシア人の乱暴が絶えず1875(明治8)年「樺太千島交渉条約」を結び、樺太を放棄して代わりに得撫島より北の「千島列島」を譲り受けた。1905(明治38)年日露戦争に勝利するとポーツマス条約を結び、樺太の南(北緯50度から南)も領土となった。しかし、1945(昭和20)年日本が大東亜戦争で敗れると、「日ソ中立条約」を一方的にやぶり、三日後、突然千島列島を攻撃し、占領し、千島列島に含まない日本占有の歯舞、色丹、国後、択捉各島の約1万7千人を追い出し、北方領土の全てを奪ってしまった。
文化の日(11月3日)
「自由と平和を愛し、文化を進める」ことを趣旨として、昭和23年に定められた。この日は昭和21年に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視しているということである。
またこの日は、明治天皇の誕生日であり、明治節という祝日になっていた(明治時代は天長節といった)憲法公布の日をこの日に合わせたと考えられ、明治時代が文明開化の時代であり、日本が大きく飛躍した時代であったので、明治天皇の徳を偲ぶという事も忘れてはならない。
この日皇居では文化勲章の授与式が行われる。またこの日を中心に文化庁の主催による芸術祭が開催される。
七五三(11月15日)
子供の成長を祝う行事。男子は3才と5才に、女子は三才と七才に当たる年に。氏神様に参詣して成長を報告して福運を祈願する。もともと公家や武家社会で行っていた成長を祝う儀式が由来である。貴族や武家社会では男女が3才になると「髪置(かみおき)」の祝いと言って、男子は剃っていた髪を伸ばし始め、女子は髪を結い始めた。男子の5才には「袴着(はかまぎ)」と言い、初めて袴を履く儀式を。女子の7才には「帯解(おびとき)」と言って、付け紐をとって、初めて帯を結ぶ儀式を行った。江戸時代中期にはこれらの行事をまとめてお祝いをする「七五三」の風習が始まった。親戚等を招き赤飯を焚いて祝った。
新嘗祭(にいなめさ、しんじょうさい)
宮中祭祀のひとつ。我が国では古くから五穀の収穫を祝う風習があった。年毎の収穫物は国家としても一年を養う大切な蓄えであり、大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の御代に始められたと伝えられている。11月23日天皇が宮中三殿近くの神嘉殿にて、新穀を天神地祇に進め、御自らもこれを食され、その年の収穫に感謝される。また、新嘗祭は伊勢神宮並びに、それに連なる神社の祭儀となり、伊勢神宮には天皇の勅使が遣わされて、神が召し上がる食事(大御饌おおみけ)を供える形式となった。
昭和23年までは祭日であった。