米大統領トランプ氏が世界を震撼させています。イランとイスラエルの戦いに介入して、イランを制圧しようとしたことが発端です。そもそも、イランはアラーを借仰するイスラム数で、イスラエルはイエスキリストを元祖とするユダヤ教即ちキリスト数です。お互いが一つの神しか信じない一神教であり、他を認めようとしないのです。両者の衝突は今に始まった事ではなく昔から続いています。また、国境をめぐる隣国どおしの戦いもロシアとウクライナの様に後を絶ちません。日本も中国や北朝鮮の圧力があり決して安全とは言えません。『敬神生活の綱領』に、「大御心をいただきてむつび和らぎ、国の隆昌と世界の共存共栄とを祈ること」とあります。共に世界の平和を祈りましょう!
皆々様の幸を祈念致します。<宮司>
メーデー
直訳すると「5月の日」です。5月1日に世界各地で行われる。労働者の祭典。労働者達が労働の権利を主張した集会やデモを行い、80以上の国が祝日としています。その昔アメリカでは一日12〜14時間労働が当たり前でしたが、これに反発した労働者達が1886年5月1日に8時間労働を主張して大規模なストライキを行ったがメーデーの起源と言われています。1890年にはヨーロッパ諸国やアメリカなどで第1回国際メーデーが実行されました。
八十八夜
立春を1日目と数えて八十八日目にあたる。日本では長く月の満ち欠けをもとにした太陰暦が使われてきましたが、季節がずれやすいため、農業の目安とするには不便な点もあったようです。その為、太陽の動きを基準にした「二十四節気」や日本の気候風土を上手に言い表した「雑節(ざっせつ)」という暦日が使われてきました。土用、二百十日、八十八夜などが雑節です。八十八夜は、五月の初め、春から初夏へと移り変わる季節で、この日頃からは農作業が本番となり、種蒔き、田植えが始まります。
憲法記念日 五月三日
昭和21(1947)年5月3日 日本国憲法が施行され、皇居前広場では昭和天皇御臨席の下、政府主催による「新憲法施行記念式典」が行われた。午後には帝国劇場で憲法普及会の主催による記念祝賀会が盛大に行われた。翌年新憲法に基づく新たな国にふさわしい祝日を定める「国民の祝日に関する法律」案の審議が行われた。当初「憲法記念日」について、衆議院では施行日の5月3日。参議院では公布日の11月3日とする意見に分かれたが、先に審議を行った衆議院の意見の5月3日におちついた。「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」ことを趣旨としている。
みどりの日 五月四日
「自然に親しむとともに、その恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」という趣旨で作られたが、最初は昭和天皇が生物学者として自然を愛されたことから4月29日の誕生日の日であったが、平成19年昭和の日となった為、5月4日に移動された。
こどもの日 五月五日
端午の節句は奈良時代の朝廷では5月5日に中国風の端午の宴会が催されていた。御所の屋根には菖蒲が葺かれ、家々の戸口にはよもぎの人形が吊るされた。鎌倉以後は「菖蒲」が「尚武」に通じる目出たいものとされより盛んになった。室町時代になると飾り付けが徐々に増え、次第に豪華な人形を飾るようになった。魔除けとしての五色の幟が飾られ吹き流しの原型になった。鯉幟は鯉が滝をのぼると竜になる。といういわれから男子の出生を祝福する目出たいものとされた。
農村でも田植え前に早乙女らが一晩「女の家」にこもって忌みごもりをする習わしがあった。この小屋はには菖蒲やよもぎが魔除けに飾られた。その日が5月の最初の午の日。つまり、端午と決められていた。このような農村の行事と宮廷の行事が融合し、江戸時代から男子の節句となり、昭和26年5月に「児童憲章」が定められ、5月5日が「こどもの日」となった。
母の日 5月第二日曜日
1908年アメリカの少女アンナ・ジャービスが亡くなった母を偲んで命日の5月9日に教会で白いカーネーションを配ったのが始まりとされている。(白いカーネーションの花言葉は「母の愛情」)1914年には当時の大統領ウィルソンが5月の第2日曜日を「母の日」と制定し、国民の祝日となった。母が健在であれば赤。亡くなっていれば白いカーネーションを贈る習慣ができた。尚、日本では昭和の戦前までの時代。皇后の誕生日であった「地久節」3月28日を「母の日」としていた。
沖縄本土復帰記念日 五月十五日
第二次世界大戦から27年後の昭和47(1972)年5月15日。沖縄はアメリカに占領されていたが、昭和46年6月17日に結ばれた「沖縄返還協定」二より、5月15日午前零時をもって発効し、日本に復帰した。
日本海海戦
日露戦争中の明治28(1905)年5月27日から5月28日にかけて、日本海軍の連合艦隊とロシア海軍の太平洋(バルチック)艦隊との間で行われた海戦である。日露戦争中の最大規模の艦隊の決戦であり、その結果日本の連合艦隊は海戦史上稀に見る勝利を収め、ロシア側を講和交渉の座に着かせる契機となった。波の荒い対馬沖で訓練を重ねた日本軍にとってバルチック艦隊が対馬沖に現れ、しかもその日は「本日天気晴朗なれども波高し」という我軍にとって絶好の条件であった。東郷平八郎大将は「皇国の興廃此の一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」と檄をとばし、各員はそれに応えたのであった。
フローレンス・ナイチンゲール(1820〜1910)
イギリスの看護婦、社会起業家、統計学者、看護教育学者、近代看護教育の母。クリミア戦争で敵、味方分け隔てなく負傷兵達へ献身、統計に基づく医療衛生改革を実行。ロンドンの聖トーマス病院にナイチンゲール看護学校を設立した。「クリミアの天使」と呼ばれた。看護婦を「白衣の天使」と呼ぶのはナイチンゲールに由来する。国際看護の日は彼女の誕生日である。(5月12日)